米国アトランタにあるエモリー大学ゴイズエタビジネススクール(Emory University Goizueta Business School)の日本人在校生によるブログです。
当校のプログラムやアトランタでの生活について書いています。
2009年11月3日火曜日
宗教
ハロウィンも終わり、11月に入り、アトランタも日ごとに晩秋の気配が漂っている。今日は、学校の事を少し離れて、宗教について感じた事を書かせて頂こうと思う。と言っても、私と宗教の関わりは盆・正月及び冠婚葬祭程度、また宗教に関する知識も義務教育で習った程度であり、とても専門的に論じる水準にない事を念頭に置いて頂いた上で、雑文にお付き合い頂ければ幸いだ。
先日、友人が毎日曜日、奥さんと共に、礼拝に通う教会にひょんな事から、私も妻子共々連れて行ってもらう事になった。教会での礼拝と言えば、厳かな雰囲気の中、牧師さんから有難い話をお聞きし、讃美歌を歌う状況を想像していたため、服装を含めた教会内のエチケットなど色々と心配したが、友人曰く、普段通りの服装で何も心配せずに来て欲しいとの事。来れば分かるから、との事だったが、私は半信半疑のまま、当日の朝を迎えた。
当日、教会に向かうと、そこは、アトランタで最も高級な地区にある壮麗な6階建てビル。無料開放された立体駐車場は車がひしめき、ビル内部は、何かの展示場を思わせる華やかさ。驚く私達を横目に友人夫婦は嬉しそうに、託児所に私達の娘を連れて行った後、私達を会場(礼拝場)に案内した。約千人収容可能な会場は巨大スクリーン 3 面を正面に配し、1・2 階とも既にほぼ満員。私達の着席後、ほどなく、礼拝は始まり、舞台にロックバンドが登場。約 20分、神に捧げるロック調の音楽が流れる。当初は懐疑的な雰囲気の観客(信者)も最終の 3 曲目には総立ちで、曲のサビをボーカルと共に熱唱。
その後、他会場にいる宣教師さんが巨大スクリーン上に登場。ジーンズに長袖シャツのいでたちで、丸型スチール椅子に座り、まるで友人に話しかけているような雰囲気で話し始めた。私が理解できた内容としては、宣教師さんは、多くのアメリカ人が、最近礼拝に行かないばかりか、キリスト教を含めた宗教信仰自身に対して疑念を持ち始めている事に憂いを持っている事、また、聖書から、宗教(キリスト教)に懐疑的だった元信者が、神との対話を通じて、再び神を信仰するようになった逸話を引用し、宗教とは、各人の心のあり様を映し出す重要な営みであり、自らが周囲の人々を許す(=寛容になる)事で、自分自身の存在も周囲から許し・認められるのだから、日々、努力しなさいと言う話で約 30 分の説教は終わった。
礼拝後、教会にまつわる興味深い話として解った事は、託児所は乳児、幼児、小学生を対象に、各年代別に設置されている事。壮麗なビルの建設費や 3 回/日実施される日曜礼拝の運営費は全て寄付で賄われている事。託児所その他運営に関わるスタッフは全てボランティアである事。礼拝以外にも子供向けキャンプ、大人向け講演会、はては男女のお見合いパーティまで企画されており一つの社会を成している事等々。
帰宅後も、私には印象が強く残り、色々な事を考えさせられた。宗教離れを改善すべく、誰しもが参加しやすい礼拝を目指す教会の努力は如何にもアメリカ的と感じたが、それもさることながら、アメリカ人が持つ気質の原点のようなものを少しだけ垣間見たような気がした事だ。こちらに来てから、アメリカ人に対する印象が一点だけ渡米前と変わらない点があり、それは、目標(より明確には、欲)に対して非常に率直であり、自分本位な傾向が強い事だ。勿論、アメリカ人も人ぞれぞれではあるものの、総じて、その傾向が強いと感じる事は多々ある。そういった国民性とこちらの生活でよく見かけるこの種の寄付・ボランティアが今までどうしても私の中で結び付けづらかったのだが、それを繋ぐ一つの考え方が宣教師さんのおっしゃった、“許し”の概念ではないか、と感じる。強い個性がぶつかり合う、いささかギスギスしたアメリカ社会で、強い自己愛に満ちあふれ、タフに見えるアメリカ人も宗教を通じて何らかの形で、心のバランスを取ろうとしているのではないか。そう考えると、ごく当たり前のことではあるが、アメリカ人も結局は人の子なのだな、と改めて感じる。
人間が出来ていない私は、これを機会に毎週、教会に行く、とまでは考えていないが、元気の無い時に、時々お邪魔したいなあ、と思っている。