米国アトランタにあるエモリー大学ゴイズエタビジネススクール(Emory University Goizueta Business School)の日本人在校生によるブログです。

当校のプログラムやアトランタでの生活について書いています。

2016年1月16日土曜日

MBA生活を振り返る


Don’t try to stop the flow of a river…

 遠い昔の記憶である。
夏の終わりの公園で、日が沈み少しずつ空が暗くなっていくなか、やかましいセミの声にかき消されそうな弱々しい声で当時付き合っていた外国人の女性がそう言ったことがある。
今となっては果たしてなぜ彼女がそのような言葉を投げかけたのかはもちろん、当時の私がどのように答えたのかも思い出すことができない。
記憶というのは頼りないものである。ごっそりと前後の文脈が抜け落ちているくせに、こんな風にある一言や一瞬の会話だけ記憶に残っていることがある。確かな記憶は、この彼女の言葉と、当時の自分には彼女がいったい何を言わんとしたのか理解できなかったということだけである。

 その後長い時間が流れた。そして私自身が当時の彼女の年齢に近づいてきた頃になってようやく、当時の彼女の気持ちがわかるようになった。おそらく彼女は形のないものに無理に形を与えようとすることの虚しさを言いたかったのだ。流れゆくものに自分の望む形を与えようとしても、その願望は指先を流れ落ちるだけなのである。簡単なことなのだが、若かった自分には願っても絶対に叶わぬ試みが存在するということが想像できなかった。そして、それをわかるようになるまでに、あまりにも長い時間がかかってしまったのである。

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 思えば、何かを「わかる」、というのは途方もないことである。ましてやそれが目に見えないものであるとしたら尚更である。自分自身がどれほど変わったのかというのも、鏡がなければ自分の顔すらわからないのと同じで、実はなかなか自覚することが難しい問題の一つである。
 この彼女の言葉のように、当時よくわからなかった誰かの言葉、というようなわかりやすいテストがあれば、自分の考え方や感じ方がどう変わったのか知る手がかりになるが、そういった手がかりがそのあたりに都合よく散らばってくれているわけでもない。

アメリカでの留学生活を振り返ってみても、自分自身MBA留学に来る前は、留学を契機になにがしか変化するところがあるのではないのかと考えていたが、もはやあと半年弱で卒業という段の今に至って、いったい何がどれほど変わっただろうかと自問してもなかなか答えは見えない。

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ひとつ思い浮かぶものというと、よくもわるくも、適当さが身についたということだろうか。適当と一口に言っても色々な意味がありうるが、私が最もアメリカに来てよかったと思える点は、そのおおらかさにある。振り返れば、日本にいたころはまさに小さなムラの中でくだらない見栄の張り合いや足の引っ張り合いにあまりにも毒されていた。日本人的自我の弱さとでも言えばよいのだろうか、他人との終わりのない比較と虚栄心の泥沼は、むしろ均質な社会の方が強いのだろう。人種、出自、性別、宗教、いろいろな要素が入り乱れた国で学ぶということは、実は学校で何を学ぶかということ以上に、日本人的な日本人にとっては重大なインパクトを持つ経験になるように思う。

 そして、MBAでの学びについて言えば、この一年半を通して気付いたこと、あるいは思い知らされたものもある。MBAでの学びというのは、「見えないものを見つめる」ことができるようになるための一つの純粋形である、ということだ。
 もとより、「ビジネス」という目に見えるようで実はよくわからない価値判断の集合体のような存在を「学問」として昇華させているアメリカの伝統なのだといってしまえばそれまでかもしれないが、経済、会計、意思決定、コミュニケーション、交渉、そして究極的にはリーダーシップという、目に見えない人間行動の集合としてのビジネスを体系的に学ぶというのは、実は「目に見えないものを見つめる」ための営みの最たるものの一つである。
 GBSに来る以前エコノミストをしていた自分にとっては、ハードデータと関数によって世の中を可視化するという発想がごく普通の感覚だった。リーダーシップなどというような見えもしない上に数値化もできないようなもので時に合理性のない判断に傾くというのは、少なくともエコノミストたちが当然の前提とする「経済人仮説(すべての人は経済合理的に行動する)」とは真逆を行くものである。

目に見えるものあるいは可視化できるものを前提とした合理的な判断によって世の中をとらえようとするエコノミスト的世界観から比べると、現実のビジネスの世界はなんと雑多で、そして理屈で説明のつかないものだろうかと驚かされたが、二年の間に、だからこそMBAでそうした鵺のような「ビジネス」なるものを学ぶことがこれほど意義あるものと見做されているのだろうと、ようやくわかった気がする。形や概念が与えられない混沌の中から有益なものを掬いだす訓練のための装置として、MBAの学びは、20代の2年間を費やしただけの十分な価値があったと思える。

言語がなければこの世界を認識できないのと同様、混沌としたビジネスの現実に向き合う上でも、混沌を混沌のままにしておくのではなく、具体的な方法論と体系だった概念を携えることが求められる。もっとも、そのうえで、「それでもやはりビジネスというものは混沌としている」というのがいまの私の偽らざる気持ちである。だが、人間同士の営みである以上、川の流れは常に変化し、そしてそれはそれでやはり良いのである。

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これが私がこのブログを更新する最後であるが、まだあと1学期が残っている。
1学期を残した段階でMBAについて何か言えることがあるか、そもそも言うべきなのか迷ったが、受験者の参考になるかどうかはひとまず度外視して、自分なりに振り返ってみたつもりである。

おそらく、この後さらに1学期が経ち、卒業を迎え日本に戻ったときに、どのような形であれ、ちくりと痛む後悔の念や、また違った可能性への期待もありえるかもしれない。

だが少なくともいまの私は、アメリカに来て貴重な20代の限りある時間を費やしたことへの後悔の念は一切ない。むしろ、自分の人生や生き方に対する考え方など、日本で暮らしていたときより大きな観点から自分の人生を省みることができたことで、アメリカで過ごすこの2年は、それがたとえ日本で過ごせば得られたかもしれない何かを犠牲にしていたとしても、より良い何かを得る――それがMBAプログラムから直接得られるものであるか、あるいはアメリカで過ごすことで得られる経験によるものかであるかは置いておくが――うえで、代えがたい時間であったと思える。

たいしたことを書くつもりがないつもりが、たいした内容でもないのにひどく長文になってしまった。そろそろ潮時である。これからアメリカでMBA取得を目指す人にとって、その経験が、悔いのないものになるように祈りつつ、筆者は現役学生として語るべきこの場を去ることとしたい。

Ted